2-2.無分別


先程、生まれたての赤ちゃんには「分別」は無いと書きましたが、
ではなぜ「分別」がないのにお腹がすくと赤ちゃんは泣くのか、
おしめが気持ち悪いと泣き出すのか。

それは、「五陰世間」という肉体が勝手に「分別」をおこなっているからです。
お腹がすいた・お腹いっぱい、気持ち良い・気持ち悪い
肉体の感覚がある限り、苦しみは完全に無くならないのです。
だってそうでしょ。自分で自分の皮膚をつねってみてください。「痛い」でしょ。
「痛い・痛くない」という「分別」です。

小乗仏教で行われた、瞑想は自身の煩悩(分別)を心の中から消し去ることによって
悟りの境地へとたどり着く修行で、
火の上を走りぬけていく荒行などは感覚すらも無くしてしまおうという修行なのでしょう。

そういった大変な修行で自身の感覚すら完全に打ち消した時、
修行者はいったい何をもって意識として存在するのか。
自身の意識(分別)を完全に打ち消した時、(寂滅)
最終的に仏様の意識を共有したのではないでしょうか。

前回の章でパンを盗んだ男の話をしましたけど、
あれは実は衆生世間のお話なんです。
観る人が変われば対象となる人物の姿も変わる(縁起の法門)
よって対象の方には実体はない(無我・無自性)
そういうふうに捉える事で人間関係に於ける分別を消して無分別状態にもっていく。

赤ちゃんのお話しは五陰世間のお話でした。五陰世間に関してもう少し解り易くお話しますと、
トマトをおいしいといって食べる人もいますが、
まずくて食べられないって人もいます。
食する人が変われば食べ物の評価も変わります。
ですからトマト自体には特性はなく(無我・無自性)、
関わる人が縁となって(縁起の法門)
おいしいとかまずいとかが生じます。
また、
赤、青2種類のボールがあるとします。
健常者が見たら赤・青の見分けはつきますが、
目が不自由な人が手にすればどちらも同じボールです。
ボールを手にする人が変われば(縁起の法門)ボールの捉え方も変わりますので
ボール自体に特質はありません。(無我・無自性)
そういうふうに考える事で「五陰世間」によって生じる分別を無分別へと転換してしまうのです。

では「国土世間」はどういうことかといいますと、
国土の違いによって生じる「分別」のお話です。
首長族では美人でも、日本ではちょっと・・・という感じありますよね。
また、「平時に人を1人殺せば犯罪者、しかし戦時に人を100人殺せば英雄」
といわれるように、道徳だって社会情勢次第でその概念が変わります。
そのように考えれば「国土世間」によって生じる「分別」も「無分別」へと転換できます。

そういった考え方を変えていくことで自身を取り巻く世界から分別を無くして無分別の世界に心をおいた時、
観えてくるものがあるんです。
そこらへんのお話を次にさせて頂きます。

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