3-2.十如是



「一念三千一心三観の法門は法華経の一の巻の十如是より起れり」
と御書にある通り、十如是がはじまりとなります。

例えば目の前にコップにそそがれた一杯の水があったとします。
今あなたは、ジョギングを終えてクタクタで喉がカラカラの状態です。
クタクタの如是相とカラカラの如是性をそなえた如是体という当体です。
目の前におかれた一杯の水が如是縁(外縁)となって、如是力(内在する力)が発動しコップを手に取ります。
それが如是作(作用)と転じて水を一気に飲み干します。
飲み干したことが如是因(原因)となって如是果(結果)としてあなたは
如是報(報い)として喉のうるおいを取り戻します。

これが十如是ですが、ではコップの水にもしも毒が入っていたとしたらどうなるでしょう。
あなたが、冷静な判断が出来る状態(十界でいうところの人界)であれば
その事に気づき大事に至らずに済むでしょう。しかし、
正しい判断が出来る状態ではなかった場合(餓鬼界や畜生界)、結果としてあなたは苦しみを味わうことになります。
人の人生は一瞬一瞬の判断の連続です。
その判断が基となって自身の人生が形成されていきます。
ですからどのような心の状態で判断をくだすかが大事になってきます。
修羅の命で判断するのか、餓鬼の生命で判断するのか、人界で冷静に判断するのか、
心の状態によってくだす判断も異なってきます。


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