3-7.一念三千の法門-(1)



一念三千の法門は、大聖人仏法の中でもっとも重要視される教えで大聖人様が御書の中で、

         「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり、
               当世の習いそこないの学者 ゆめにもしらざる法門なり」
                                         (草木成仏口決)

と仰られておりますようにご本尊様=一念三千の法門なのです。
それがどういうことなのか理解するにはそれなりの教学と信心の実践がなければ理解に至りませんし、
まして客観癖に侵されている現代人の頭では、客観認識に陥った一念三千の法門になってしまい、
「生命は三千の種類に分けられる」程度の理解にしか至りません。

そのような高度な教えなのでここから先は、少々難しい解説になっていきますことをご了承ください。
(第六章でもう少し解りやすく解説しております)

まず、以下に示す文章と図は、日顕御隠尊猊下が平成27年4月28日初版発行されました「三大秘法義」という書籍の
「第7章 三大秘法と一念三千」の315ページから316ページに記載されている内容です。

 また、円融無碍の意により観ずれば、空・仮・中の三諦が円融である故に、各々にさらに三諦を具える義が成立する。すなわち、空諦の空は泯有の意、空諦の仮は立空の意、空諦の中は泯立融法の意であり、仮諦の空は泯空の意、仮諦の仮は立有の意、仮諦の中は泯立融法の意である。また、中諦の空は双泯空有の意であり、中諦の仮は双立空有の意、中諦の中は双遮双容の意である。ここに、三三九諦の相がある。

 この九諦につき、空諦泯法の意としましては、泯有の空、泯空の空、双泯空有の空がある。次に、仮諦立法の意としては、立空の仮、立有の仮、双立空有の仮となる。次に、中諦容法の意としては、空においての泯立融法の中、仮においての泯立融法の中、双遮双容の中となる。この空諦泯法、仮諦立法、中諦容法がそのまま円融であり、元の三諦と開合の関係において互融するのである。


「仮・空・中」の三諦が仮諦の中で更に「仮・空・中」、空諦の中で更に「仮・空・中」、

中諦の中で更に「仮・空・中」といった感じで互具する様が説明されています。

まずはこの図の意味するところを解釈致します。


以下に示す御文に照らし合わせてこの図に法身・報身・応身の三身をあてはめると図1の様になります。


<一念三千法門>

此の一念三千一心三観の法門は法華経の一の巻の十如是より起れり、文の心は百界千如三千世間云云、さて一心三観と申すは余宗は如是とあそばす是れ僻事にて二義かけたり天台南岳の御義を知らざる故なり、されば当宗には天台の所釈の如く三遍読に功徳まさる、第一に是相如と相性体力以下の十を如と云ふ如と云うは空の義なるが故に十法界皆空諦なり是を読み観ずる時は我が身即報身如来なり八万四千又は般若とも申す、第二に如是相是れ我が身の色形顕れたる相なり是れ皆仮なり相性体力以下の十なれば十法界皆仮諦と申して仮の義なり是を読み観ずる時は我が身即応身如来なり又は解脱とも申す、第三に相如是と云うは中道と申して仏の法身の形なり是を読み観ずる時は我が身即法身如来なり又は中道とも法性とも涅槃とも寂滅とも申す、此の三を法報応の三身とも空仮中の三諦とも法身般若解脱の三徳とも申す此の三身如来全く外になし我が身即三徳究竟の体にて三身即一身の本覚の仏なり、是をしるを如来とも聖人とも悟とも云う知らざるを凡夫とも衆生とも迷とも申す。


<三世諸仏総勘文教相廃立>

此の極楽とは十方法界の正報の有情と十方法界の依報の国土と和合して一体三身即一なり、 四土不二にして法身の一仏なり十界を身と為すは法身なり十界を心と為すは報身なり十界を形と為すは応身なり 十界の外に仏無し仏の外に十界無くして依正不二なり身土不二なり一仏の身体なるを以て寂光土と云う是の故に無相の極理とは云うなり、 


図1



更に、この図1に以下に示す御文の意味するところを書き足しますと、図2のようになります。


<三大秘法禀承事>

 問う一念三千の正しき証文如何、答う次に出し申す可し此に於て二種有り、方便品に云く「諸法実相所謂諸法如是相乃至欲令衆生開仏知見」等云云、底下の凡夫理性所具の一念三千、寿量品に云く「然我実成仏已来無量無辺」等云云、大覚世尊久遠実成の当初証得の一念三千なり、今日蓮が時に感じて此の法門広宣流布するなり予年来己心に秘すと雖も此の法門を書き付て留め置ずんば門家の遺弟等定めて無慈悲の讒言を加う可し、其の後は何と悔ゆとも叶うまじきと存ずる間貴辺に対し書き送り候、一見の後秘して他見有る可からず口外も詮無し、法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり、秘す可し秘す可し。


<如来滅後五五百歳始観心本尊抄>

問うて云く法華経は何れの文ぞ天台の釈は如何、答えて曰く法華経第一方便品に云く「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」等云云是は九界所具の仏界なり、寿量品に云く「是くの如く我成仏してより已来甚大に久遠なり寿命・無量阿僧祇劫・常住にして滅せず諸の善男子・我本菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命今猶未だ尽きず復上の数に倍せり」等云云此の経文は仏界所具の九界なり、経に云く「提婆達多乃至天王如来」等云云地獄界所具の仏界なり、


<総勘文抄>

十法界は十なれども十如是は一なり譬えば水中の月は無量なりと雖も虚空の月は一なるが如し九法界の十如是(※ 衆生の仮諦の十如是)は夢中の十如是なるが故に水中の月の如し仏法界の十如是(※ 仏の中諦の十如是)は本覚の寤の十如是なれば虚空の月の如し、是の故に仏界の一つの十如是顕れぬれば九法界の十如是の水中の月の如きも一も闕減無く同時に皆顕れて体と用と一具にして一体の仏と成る、


<生死一大事血脈抄>
妙は死法は生なり此の生死の二法が十界の当体なり

図2



解説しますと、我々凡夫の仮諦は仮諦の仮=立有(現実に認識出来る世界)@、

衆生の空諦は空諦の仮=立空(実体は存在するが空ずる)A、

衆生の中諦は中諦の仮=双立空有(空ずるが仮であり仏界)B。

双立空有は、空と有が共に立ちあがっている状態なので一心三観でいうところの中観(而二不二)です。



死後の世界はどうなるかというと、死後の世界の仮諦は仮諦の空=泯空 A。

わかり易く言えば仮諦は分別の世界なのでこの世ではあるが仮の姿も無いので空として(霊)存在している。

その霊にも空諦の空があり B、

中諦の空に悟りの境地がある C。

これは、どういうことかと言うと、無くなった先祖様を我々が追善供養してあげることで、

空諦の空へ B、中諦の空 Cへと円融し成仏に至るということです。



では、仏様の三諦互融はともうしますと、仮諦の中は、この世に実在する仏なので戒壇のご本尊様「 あ」、

空諦の中は実在しない法としての南無妙法蓮華経 「い」、

中諦の中は久遠元初の仏様(大聖人様) 「う」ということです。



これらの御文や図2からも明らかなように一念三千といっても我ら衆生の

凡夫の一念三千」(理性所具の一念三千)と「仏の一念三千」(仏界所具の一念三千)とがあるということです。

完全に平等ではないが十界互具により理としては平等であるということである。

ホーム
inserted by FC2 system