3-7.一念三千の法門-(2)


先ほどのマラソンランナーの例え話にあてはめてお話したらもう少し解り易くなるかと思いますのでやってみましょう。
十如是事>
初めに如是相とは我が身の色形に顕れたる相を云うなり是を応身如来とも又は解脱とも又は仮諦とも云うなり@ 
次に如是性とは我が心性を云うなり 是を報身如来とも又は般若とも又は空諦とも云うなりA
三に如是体とは我が此の身体なり 是を法身如来とも又は中道とも法性とも寂滅とも云うなりB

されば此の三如是を三身如来とは云うなり 
此の三如是が三身如来にておはしましけるを・よそに思ひへだてつるがはや我が身の上にてありけるなり、 
かく知りぬるを法華経をさとれる人とは申すなり


例えばフルマラソンを走りぬいたランナーがいたとします。
このランナーは、汗びっしょりでクタクタの如是相と如是性をそなえた如是体という当体です。
@AB


                                         <仮諦>


そんなランナーの前に一杯のコップに注がれた水が差し出されました。
のどがカラカラのランナーは差し出された水が如是縁(外縁)となって、
C如是力(内在する力)が発動しコップを手に取り、如是作(作用)と転じて水を一気に飲み干します。
飲み干したことが如是因(原因)となって如是果(結果)としてランナーはお腹を壊して、
如是報(報い)の苦しみを味わいます。


ランナーが飲み干した水は、実は友人がうっかり放置していた腐った水だったのです。
クタクタで喉がカラカラだったランナーは、正常な状態ならば気づいたであろう水の腐りを、
全く気づかないまま飲み干してしまったのです。

仏法では苦しみは煩悩から生じるとしますが、具体的には様々な物事への執着から起こります。
このランナーは水が飲みたいという欲望に執着するあまり判断を誤ってお腹をこわして大変な目にあいます。
そのことがきっかけとなり腐った水を置いていた友人と喧嘩するにまで至りました。


このランナーが腐った水を飲んでしまい苦しんでいる姿は、空仮中の三諦でいうところの仮諦の姿にあたります。
勤行で十如是の所を3回繰り返しますが、
そのうちの一つはこの仮諦の「仮」の姿を捉えた十如是(仮の義で読む十如是)です。



                                        <空諦>




友人と喧嘩別れしたランナーは家に帰って勤行をはじめます。
最初は腐った水を放置しておいた友人に対する怒りで一杯でしたが、
唱題していくなかで御本尊様の仏界の境地に感応し、
怒りも静まり空諦の真理を得る(空の義で読む十如是)ことで、
物事には実体はない、友人の方に問題があるのではない。」と己の心と向き合う姿勢が出来ます。




                                         <中諦>


そして、腐った水に気づかなかった自身のふがいなさを反省し
「明日、友人に謝りに行こう!」という中諦の悟り(中の義で読む十如是)を得て、
友人との仲は修復されました。


この一連の流れの中で、ランナーの心は餓鬼界になったり修羅界になったり人界になったりで、
十如是が起点となって十界が変動して現れていくのです。


「仮諦」仮の悟り(真実)とは百界 百界の相(縁起の法門を悟る) (差別相)分別
「空諦」空の悟りとは千如 百界を形成する因果具時の法(色即是空を悟る) (無差別)無分別
「中諦」中の悟りとは三千 現在の自身の姿は仮の姿ではあるが(世法的に捉える自身の姿)、仏様の仏界と衆生の九界とが境智冥合した悟りの境地から捉えることが出来た時、自身が生まれてきた真実の意味に気づく。 (一念三千の悟り)
仏の無分別智


このような当事者の心の動きを内道として主観的認識で説きあらわされたのが一念三千の法門です。


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