3-7.一念三千の法門-(3)


次に、御書の「生死一大事血脈抄」を拝しながら図を使って「一念三千」を解説してまいります。


[原文]
御状委細披見せしめ候い畢んぬ、夫れ生死一大事血脈とは所謂妙法蓮華経是なり、 其の故は釈迦多宝の二仏宝塔の中にして上行菩薩に譲り給いて 此の妙法蓮華経の五字過去遠遠劫より已来寸時も離れざる血脈なり、 妙は死法は生なり此の生死の二法が十界の当体なり 又此れを当体蓮華とも云うなり、 天台云く「当に知るべし依正の因果は悉く是れ蓮華の法なり」と云云 此の釈に依正と云うは生死なり 生死之有れば因果又蓮華の法なる事明けし、伝教大師云く「生死の二法は一心の妙用・有無の二道は本覚の真徳」と文、天地.陰陽.日月・五星.地獄・乃至仏果.生死の二法に非ずと云うことなし、 是くの如く生死も唯妙法蓮華経の生死なり 、天台の止観に云く 「起は是れ法性の起・滅は是れ法性の滅」云云、 釈迦多宝の二仏も生死の二法なり、

[現代語訳]
御手紙を詳しく拝見しました。お尋ねの、生死一大事血脈とは、いわゆる妙法蓮華経のことである。
そのわけは、この妙法蓮華経の五字は釈迦・多宝の二仏が宝塔の中で上行菩薩にお譲りになられたのであり、
過去遠遠劫以来、寸時も離れることのなかった血脈の法であるからである。

 妙とは死、法とは生のことで、この生死の二法が即、十界の当体である。また、これを当体蓮華ともいうのである。

天台大師は「まさに知るべきである。十界の依正の因果がことごとく蓮華の法門である」といわれている。
この釈に依正というのは生死の意である。生死があれば、その因果もまた蓮華の法門であることは明らかである。
伝教大師は「生死の二法は一心の妙用であり、有と無との二道は本覚の真徳である」と述べている。
天地・陰陽・日月・五星・地獄・ないし仏果に至るまで、生死の二法でないものはない。
このように生死もただ妙法蓮華経の生死なのである。
天台大師の摩訶止観に「起はこれ法性の起であり、滅もまたこれ法性の滅である」とある。
釈迦・多宝の二仏も生死の二法をあらわしているのである。


「妙は死 法は生なり 此の生死の二法が十界の当体なり」

人間には起きて活動している時と寝ている時があるのと同じように、死んでいる状態の時と生きている状態の時があります。

この死んでいる状態が無分別(空諦)で生きている状態が分別(仮諦)にあたります。

お釈迦様のお弟子の一人、目連尊者が修惑(思惑)を断じて、阿羅漢の位に昇り、

三明六通(仏や阿羅漢が有する神通力)を得て、慳貪(物を惜しんで貪ること)の罪によって、

餓鬼道に堕ちた母の姿を見た話は、皆さんお盆の時期になると良く耳にする盂蘭盆御書のお話です。


「幽霊は餓鬼界」という話しを聞いた事がありますが、

おそらくこの目連尊者のお話からそういった説が伝わっているのかなと思ったりもします。


このような御文や仏法説話から考えるに確かに「死後の世界」というものが存在し、

我々が生きているこの世界が「人界」で

死んで魂として存在する世界の1つが「餓鬼界」であると推測されます。


「餓鬼界」以外に「仏界」「菩薩界」も死後の世界(無分別の世界)だと考えます。

「地獄界」も死後の世界でしょうし、「畜生界」はこの世(娑婆世界)の動物(畜生)が生きる世界でしょう。

残りの「修羅界」「天界」「声聞界」「縁覚界」も娑婆世界と死後の世界のどちらかにあると考えられます。

「声聞界」「縁覚界」は、欲にまみれた俗世間を捨てて、

崇高な理念に生きる仏門に帰依するご僧侶たちが住む世界なのかもしれませんが、

物欲性欲食欲など人間の本能に基づく欲求を限りなく限定してこその神聖なる世界が、

肉食妻帯で外車を乗り回しゴルフ三昧の俗世間と全く変わらぬ生活をおくって

僧侶でございますと言われても如何なものかと首をかしげてしまいます。


その各々の世界で十界が互具して百界の相を成しているのでしょう。


図1はそういった「生死の二法」を著したもので、

中でも死後の世界について説明しますと、

俗に言う幽霊は、この世=仮諦(分別の世界)で認識される姿なので「泯空」Aで

「餓鬼界」以外へ旅立った生命は空諦(無分別の世界)へ向かうから「泯有」C。

成仏出来た人は中諦(仏界)へ向かうから「双泯空有」E。


以上が「死の一法」で我々が生きている状態の「生の一法」はと言いますと、


迷いの凡夫の状態が仮諦の仮、「立有」@

色即是空を悟った状態が空諦の仮、即ち「立空」B

一念三千を悟った状態(境智冥合)が中諦の仮、「双立空有」D


以上の生と死の二法を合わせたのが「凡夫の一念三千」であります。

図1



ちなみに、現実離れした表現で語られる「虚空絵の儀式」はどの空間で行われたかということも考察しておきます。

図2をご覧下さい。
図2


お釈迦様が現実のこの世で認識できる姿が仮諦(分別の世界)の中、「泯立融法」Fで、

法華経を説かれた状態が空諦なのか中諦なのか判断に迷うところです。法を説くのですからおそらく「空諦」だと思われます。

もし「空諦」であれば空諦の中の「泯立融法」Gが「虚空絵の儀式」が行われた空間という事になります。

この空間は無分別の世界なので肉体は存在しません。

ですからあのような宙に浮いた表現がなされていてもおかしくはないでしょう。



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