4-2.空の理論



「此の大法を弘通せしむるの法には、必ず一代の聖教を安置し、八宗の章疏を習学すべし。

                              然れば則ち予所持の聖教多々之有りき。」

                                         『曾谷入道殿許御書』


の御文に示されておりますように、

大聖人様の仏法を弘めるにおいて、必ず五時八教を習学しなさいと大聖人様は仰せです。


 「五時」とは、釈尊一代の化導を説法の順序に従って、

華厳時(けごんじ)・阿含時(あごんじ)・方等時(ほうどうじ)・般若時(はんにゃじ)・法華涅槃時(ほっけねはんじ)

の五期に分類したものをいいます。


 「八教」は「化法(けほう)の四教」と「化儀(けぎ)の四教」とに分けられます。

このうち「化法の四教」とは、釈尊の教えの内容を分類したもので、蔵教・通教・別教・円教の四つをいい、

「化儀の四教」とは、衆生を化導する方法を分類したもので、頓教・漸教・秘密教・不定教の四つをいいます。


その「化法の四教」について簡単に説明してまいります。

「化法の四教」のポイントは「空」の理論の進化にあります。

「空」を理解する事は簡単なことでありません。

それ故にそれぞれの時代にそった「空理」がそれぞれの論師によって説かれてきました。

正法時代には龍樹が『中論』で、像法時代においては天台が『摩訶止観』で、

それぞれ「空」を説いていますが、その内容の進化を「化法の四教」にのっとって説明していきます。



<蔵教>

蔵教で説かれている空理観は、一切の事物を構成要素に分析していき、

それらは因縁が尽きれば滅して空になると観る「析空観」を説いています。

具体的にいえば、蔵教で説くところの、「無余涅槃(むよねはん)」は、

生理的欲求さえも完全になくしてしまうことで肉体を滅してしまって

心身ともに全ての束縛を離れた状態を目指す(完全に分別を断ち切る)ことで成仏しようとするものです。


このような感情・理性・肉体の感覚までも寂滅させて目指す「空」を「但空の理」といいます。

蔵教はひたすら「空」を説くので、「但空の理」=非有となります。



<通教>

通教は、利根の菩薩に

当体にはおのずから有の存在を含み、

ただ単なる空ではないという中道の妙理が含まれている「不但空の理」を悟らせる為に説かれた教えで、

それを悟った利根の菩薩は次の別教や円教の修行に進んでいきます。


通教は「空」を説きつつ現実の相(いわゆる「仮」)も説くので、

「不但空の理」=非有非無(存在にあらず、無にあらず)となります。



<別教>

別教では、前のニ教が空理のみを説くのに対し、広く空・仮・中を明かしています。


「空理」とは、あらゆる存在には固定した実体がないことをいい、

「仮」とは、あらゆる存在は因縁によって、仮りにその姿が現れていることをいい、

「中」とは、あらゆる存在は空でもなく仮でもなく、しかも空であり仮でもあるという

空・仮のニ辺を超越したところをいい、ここに不偏の真実があるとします


しかし別教ではまだ十界互具が説かれていないので、円融できない「空観・仮観・中観」でした。
(十界互具が説かれていないので「空諦」ではなく「空観」です。なので一心三観)

別教で説かれる「空・仮・中」を「但中の理」(一心三観)といいます。

「仮」という面と「空」という面、それぞれの面を同時に観るのが「中観」です。(観とは心で観じるの意)



<円教>

円教で十界互具が説かれることで人界である凡夫であっても互具する仏界を感じて

「空の悟り」「仮の悟り」「中の悟り」と円融できるので「空諦」「仮諦」「中諦」の三諦となり

三諦の円融が可能となります。(諦とは悟りの意)

円教は「空」「仮」を融合した「中諦」を説くので、「不但中の理」と呼びます。


このようにひとえに「空」といいましても様々な「空」の理論があるのですが、

それらがごちゃ混ぜになって解釈されている事が多いように思われます。

とくに三観と三諦の混乱は甚だしい限りで、明確にその違いを解説出来ている文献を見たためしがありません。

私の考察では、以下のようになります。


[三観=物事の捉え方] [三諦=真理(仏の悟り)]
仮観=縁起の法門
空観=無我・無自性 自色即是空
中観=而二不二
仮諦=十界互具(百界)
空諦=十如是  (千如)
中諦=一念三千
   心で観じる    仏の悟りを得る


以下の御書の御文に照らし合わせての考察です。


『十如是事』
其の故は 「百界と云うは仮諦なり 千如と云うは空諦なり 三千と云うは中諦なり」



『一念三千法門』
此の一念三千一心三観の法門は法華経の一の巻の十如是より起れり、文の心は百界千如三千世間云云、さて一心三観と申すは余宗は如是とあそばす是れ僻事にて二義かけたり天台南岳の御義を知らざる故なり、されば当宗には天台の所釈の如く三遍読に功徳まさる、

第一に是相如と相性体力以下の十を如と云ふ如と云うは空の義なるが故に十法界皆空諦なり是を読み観ずる時は我が身即報身如来なり八万四千又は般若とも申す、

第二に如是相是れ我が身の色形顕れたる相なり是れ皆仮なり相性体力以下の十なれば十法界皆仮諦と申して仮の義なり是を読み観ずる時は我が身即応身如来なり又は解脱とも申す、

第三に相如是と云うは中道と申して仏の法身の形なり是を読み観ずる時は我が身即法身如来なり又は中道とも法性とも涅槃とも寂滅とも申す、

此の三を法報応の三身とも空仮中の三諦とも法身般若解脱の三徳とも申す此の三身如来全く外になし我が身即三徳究竟の体にて三身即一身の本覚の仏なり、是をしるを如来とも聖人とも悟とも云う知らざるを凡夫とも衆生とも迷とも申す。

十界の衆生各互に十界を具足す合すれば百界なり百界に各各十如を具すれば千如なり、此の千如是に衆生世間国土世間五陰世間を具すれば三千なり、百界と顕れたる色相は皆総て仮の義なれば仮諦の一なり千如は総て空の義なれば空諦の一なり三千世間は総じて法身の義なれば中道の一なり



一念三千の法門と書かずに一念三千一心三観の法門と書かれていることから、

一心三観で捉えることで空諦・仮諦・中諦のそれぞれの悟りを得ることができると解釈する。すると、

     仮諦の悟り=十界互具(百界) =応身如来
     空諦の悟り=十如是  (千如) =報身如来
     中諦の悟り=一念三千      =法身如来

となり第3章のそれぞれの図が成り立ちます。


<仮諦>







<空諦>








<中諦>






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