6-5.一念三千論-(5)


一念三千を語るうえでもう一つ話しておきたい大事なことがあります。

「観念」と「観法」の違いのところでお話ましたが
一念三千は観念と大聖人様がいわれておりますように
「意識」が大きく関係しています。

例えば、友人を折伏している場面を想像してみてください。

相手は念仏の業でこり固まったような性格の人物で
いくら話をしてもどうとう巡りの会話に陥って
いい加減折伏している方もイライラしてきます。

その場合の「イライラ」は、何が原因で生じているのか考えてみましょう。
普通、このような場合

「こいつ、いい加減にしろよ。それさっきも言ったじゃないか・・・」

と、相手の事を批判的な目でみてしまいます。その時の自分の意識は、


   自分>>>>>>>>>>>>>>>友人
       意識の方向→


という感じで友人の方に意識が向いています。
なんてわからない人なんだろうという意識が相手に対して働き
「イライラ」が自分の中で生じています。

あげくの果てに

「無理だ、こいついくら話しても無駄だ」

と三行半(みくだりはん)を下して友人と別れます。
しかし家に帰ってご本尊様にその友人の事を祈りながら唱題していると
友人に対する「イライラ」が静まり今まで友人に向いてた意識が自分の方に向きだします。

なぜなら、対象には実体も本質もない「無我・無自性」なんですよと※(注) 日頃から教えられているからです

対象である友人の方は「無」であるならば、この自分の「イライラ」は何が原因で起きているんだろう?
図で示したらこんな感じです。


               (無我・無自性)
   自分<<<<<<<<<<<<<<<友人
       ←意識の方向


今まで友人に向いていた意識が自分に向かいだします。

対象の方には実体も本質も無い「無我・無自性」と捉えた時、
相手は「無」なのだからそこに原因は無いと判断します。
そう判断することで相手に向けられていた意識は自分に向かいます。
そしてイライラの原因は自分が作り出しているんだと気づきます。

「友人を理解させえるだけの力を自分が持ち合わせていないんだ!」

と、最終的に気づきます。そして

「よし! もっと自分を磨こう」

と更に信心に励むことで自身の成長に繋がっていきます。

人間って「あいつが悪い、これが悪い」ってすぐに人のせいにして愚痴ったり非難したりしがちです。
そうすると自分が楽だからです。
でも本当は全て自分に原因があるんですよと説いているのが大聖人様の仏法なんです。
だから「己心の法」と大聖人様は言われているのです。
「あいつが悪い、これが悪い」って言っている人は「心外の法」になっているんです。


※注 日頃から教えられていないとそう思えません。だから説法(正しい)が大事なのではないでしょうか。




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