子は親が存在するからこそ存在する訳で 言いかえますと、 我々凡夫は仏が存在するからこそ存在する訳です。
また、「煩悩即菩提」(煩悩があるから悟りがある)という言葉は 煩悩が「因」となって悟りの「果」を得るとも言えます。
以上のことを頭に留めて今からのお話をお聞き下さいませ。
「総勘文抄」をさらに読み進めて参りますと、次の御文が出てきます。
「生と死と二つの理は生死の夢の理なり妄想なり顛倒なり本覚の寤を以て我が心性を糾せば 生ず可き始めも無きが故に 死す可き終りも無し既に生死を離れたる心法に非ずや」
我々凡夫が生と死という分別法で人生をとらえた場合の真実は 縁起の法門によって仮に存在している百界の差別相になります。
そして分別法ではなく無分別法で生命をとらえた時、 その差別相がどうしてあわわれているのかというカラクリが千如是であり、 その当体が現在の自身の姿だと悟り得ます。
その自身の生命が生と死を繰り返し輪廻しているという真実を悟った時、 生命とは「無始無終」で存在していると気づきます。
我々凡夫は仏道修行で悟りを得て成仏へと辿り着きます。 凡夫であったお釈迦様が
仏と成ることによってそのことを示して下さいました。
しかし、早合点(はやがてん)しないで下さい。 凡夫が修行を経て仏へと成仏することと、 もともと仏として存在している久遠の本仏である仏とでは 同じ仏でも種類が異なります。
お釈迦様は、
「聖人(釈迦)此の法を師と為して修行覚道したまへば、妙因妙果倶時に感得し給ふ。 故に妙覚果満の如来と成り給ふなり。」 (平成新編御書六九五頁)
とあるように五百塵点劫の当初において修行をして仏になりました。 「無始無終」であるならば仏は最初から終わりまで変わることなく仏として存在するのです。 お釈迦様は始めは凡夫な訳でして修行をして仏になったのです。
何が言いたいのかと言いますと、この図をご覧下さい。
http://mh357.web.fc2.com/3-7-1.html ここ↑の図2の死後の世界、ここが凡夫が成仏したポジションにあたります。 お釈迦様はこのポジションに位置するのです。
仮諦(分別法の世界) -------------凡夫 (衆生) 空諦(無分別法の世界)-------------成仏した凡夫(お釈迦様)仏 中諦(分別・無分別を超えた世界)---久遠の仏 (大聖人様)仏
大聖人様はお釈迦様とは違って久遠の時点から既に仏なのです。 そして久遠の時点から凡夫も存在しているのです。 「無始無終」な訳ですから、 「生ず可き始めも無きが故に 死す可き終りも無し」とあるとおり 凡夫は凡夫として仏は仏として始めから終わりまで変わらないのです。 ただ凡夫は迷いの眠りから覚めれば仏となるし、迷いの世界に陥れば凡夫となって転生します。 (成仏しそこなって餓鬼界に落ちれば霊となって存在し、畜生界に落ちれば動物に生まれ変わるのでしょう。)
空・仮・中をそういった角度からとらえるならば 仮諦と空諦は裏表の関係で而二不二の凡夫(仏にもなりうる)で
中諦が久遠の本仏といった見方も出来るでしょう。
この凡夫と仏(本仏)の関係は因位と果位の関係でもあります。 我々凡夫はどんなに頑張っても因位の位での悟りなのに対し 大聖人様は果位の位での仏であり本仏ですので、 凡夫の我々は御本仏の仏様にはとうてい及ばないのです。
そのような因果が「無始無終」で因(凡夫)と果(仏)が同時に存在していることを 蓮華の花に例えて「蓮華」と名づけられたんだと思います。
妙法は生(分別)と死(無分別)の二法をあわせた十界の相(如是相)。 蓮華は因果の理法(如是性)。
妙法蓮華経は相と性を備えた当体(如是体)となります。
お釈迦様が久遠において修行したとされる「法」である「南無妙法蓮華経」は、
この果位の本仏、本因妙の日蓮大聖人様なのです。
「我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり、其の教主は某なり」 (百六箇抄)
「本因妙の教主本門の大師日蓮謹んで之を結要す」 (百六箇抄)
「久遠名字より已来た本因本果の主・本地自受用報身の垂迹上行菩薩の再誕・本門の大師日蓮詮要す。」 (百六箇抄)
「仏は熟脱の教主 某は下種の法主なり」
(本因妙抄)
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