御本尊

〝御本尊〟を正しく理解する為に『草木成仏口決』という御書を紹介させて頂きます。

 大聖人様が51歳の時、佐渡の塚原で、最蓮房に与えられた御書です。最蓮房は大聖人様と同じように佐渡に流罪となっていた学識のある天台宗の僧侶ですが大聖人様に折伏されてお弟子となられたかたです。その『草木成仏口決』は、次のような内容で始まります。

「問うて云く草木成仏とは有情非情の中何れぞや、答えて云く草木成仏とは非情の成仏なり、問うて云く情非情共に今経に於て成仏するや、答えて云く爾なり、問うて云く証文如何、答えて云く妙法蓮華経是なり・妙法とは有情の成仏なり蓮華とは非情の成仏なり、有情は生の成仏・非情は死の成仏・生死の成仏と云うが有情非情の成仏の事なり、其の故は我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは死の成仏にして草木成仏なり」

 以上の文章を解りやすく説明します。

「問います。草木成仏とは有情・非情で言えば、どちらの成仏を言うのですか?」

「答えて言います。草木成仏とは非情の成仏である」

「問います。非情であっても有情と同じように今経(法華経)においては成仏するのでしょうか?」

「答えて言います。非情であっても成仏します」

「問います。その文証はどのようなものですか?」

「答えて言いましょう。妙法蓮華経の五字がそれになります。妙法とは有情の成仏であり、蓮華とは非情の成仏になります。また、有情は生の成仏であり、非情は死の成仏です。生死の成仏というのが有情非情の成仏のことなのです。そのゆえは、我等衆生が死んだ時に塔婆を立てて開眼供養をしますが、これが死の成仏であり非情の草木であっても仏と成るということです」

 この御書は非情の草や木も仏に成りえることを解説した御書で、曼荼羅御本尊はこの道理に基づいて開眼供養がなされ、「本尊」と成りえます。その非情の草木成仏の原理を天台僧の最蓮房に解りやすいように天台の理をもって次のように説明されます。

「止観の一に云く「一色一香中道に非ざること無し」妙楽云く「然かも亦共に色香中道を許す無情仏性惑耳驚心す」此の一色とは五色の中には何れの色ぞや、青・黄・赤・白・黒の五色を一色と釈せり・一とは法性なり、爰を以て妙楽は色香中道と釈せり、天台大師も無非中道といへり、一色一香の一は二三相対の一には非ざるなり、中道法性をさして一と云うなり、所詮・十界・三千・依正等をそなへずと云う事なし、此の色香は草木成仏なり是れ即ち蓮華の成仏なり、色香と蓮華とは言は・かはれども草木成仏の事なり」

 この文章を解りやすく説明します。

 天台大師の摩訶止観の第一に「一色一香といえども中道実相の理でないものはない」とある。これは、〝地球上の如何なるものであっても、仏法の真理でないものはない〟という意味だが、妙楽大師(天台宗の第6祖)がこの文を受けて、

「世の中全てにその理(一念三千)が通ずるといっても、無情のもの(例えば石ころなど)がどうして仏性を観じとることが出来ようかと世間の人たちは耳を疑うであろう」

 と言っている。ここで言う「一色」とは、青、黄、赤、白、黒の五色の中のどれか一色といった意味ではなく、「法性」即ち一念三千の今一瞬の目の前の光景(世界)が三千の要因が縁となって立ち上がった世界観であるという真理。これを妙楽大師は「色香中道」と訳した。一色一香の一は、二や三に相対した一ではなく、「中道法性」即ち一念三千をさしての一というのである。そして、

「所詮・十界・三千・依正等をそなへずと云う事なし」

 と、十界・三千の依正等を備えないものはないと言われている。依正とは、依報と正報のことで、過去の宿業の報いとして受ける環境とそれをよりどころとする身体のことです。一香とは、一つの香り。感覚・意識の対象を代表させていった言葉で目の前に映る今一瞬の光景や意識として感じる感覚を〝色香〟と表現し、

「此の色香は草木成仏なり是れ即ち蓮華の成仏なり」

 と、非情の対象である草木も成仏、即ち仏に成りえると言い、それは蓮華の成仏であると大聖人様は御指南あそばされています。そして次の文に繋がります。

「口決に云く「草にも木にも成る仏なり」云云、此の意は草木にも成り給へる寿量品の釈尊なり、経に云く「如来秘密神通之力」云云、法界は釈迦如来の御身に非ずと云う事なし」

 草や木は非情であり、人や動物などの生き物は有情です。草木が成仏することの意味は、寿量品の釈迦にあると言われ、その極意は「如来秘密神通之力」であると言われています。

〝寿量品の釈迦〟とは「始成正覚」に対する「久遠実成」の釈迦の意で、時空を超えた世界観(虚空会)においては、草や木も人や動物も全てが一体として顕れます。それがどういうことなのか、「石」を例に説明します。

 「石」は人が石として(五蘊で)認識して初めて〝石〟として立ち上がる色相で、生まれつき盲目の人にはその姿は立ち上がりません。単独で「石」という〝もの〟が存在する訳ではありません。

 また、日本人が見る石は、〝石〟ですがアメリカ人が見ると同じ石であっても〝Stone〟に変わります。縁が変われば同じ石でもその認識のされ方が変わってきます。漬物屋さんが見れば漬物を作る為の道具であり、墓石屋さんが見れば墓石を作る素材として認識される訳です。では、認識する人がいない場合、石はどうなるでしょう。

 例えば宇宙空間に漂う石は、誰からも認識されません。その場合の石は「石」でも「Stone」でもなく石そのものの存在自体が生じません。存在しているにも関わらず、誰の心にもその石の存在が認識されない為、存在自体が認められないのです。誰かが肉眼で認識して初めて「石」とも「Stone」ともなります。その石が「石」や「Stone」であることを定義づけるのが〝概念〟です。

 その概念から抜け出た世界。それがどのような世界なのか、少し考えてみましょう。まず石は〝石〟ではなくなる訳ですが、大きな〝それ〟を手に取ると〝重い〟と感じます。しかし〝重い〟という言葉もまた概念です。その〝それ〟が足に落ちれば〝痛い〟と感じます。〝痛い〟という表現もまた概念です。言葉の概念の中で生きている人は思わず「痛い!」と叫ぶでしょう。では言葉の概念がない人は、なんと叫ぶでしょう?

「あー!」とか「うぅぅぅ!」といったところでしょうか。

 実は「南無妙法蓮華経」とは、そういった概念から抜け出た言葉なのです。あるのは、ただ一つの一念三千という真理。今一瞬の光景は三千の要素が複雑に絡み合って立ち上がった自身の心が造り出す世界観であると。それを「南無妙法蓮華経」と名付けられたのです。大聖人様が勝手に名付けた訳ではありません。天台もそれは知っていました。知っていたが弘めなかった。その話はまた別の機会にお話しするとして、法華経寿量品の虚空会に出てくる「七つの宝物で飾られた塔」。それを七文字の南無妙法蓮華経として大聖人様が顕されました。

 お釈迦様は仏法が東の国、日本に伝わっていくことを解っていて「七つの宝物で飾られた塔」と表現されているのです。世界に類をみない程に日本語ほど繊細な表現力をもった言語はありません。仏法は伝わるべくして日本に広まっていったのです。石や草や木といったものは、人の心が〝概念〟として認識して顕れるもので、その概念を取っ払って心を「南無妙法蓮華経」だけにしたら、全てのものは南無妙法蓮華経として顕れるという事です。

 「全てのものに仏性は存在する」とは良く言いますが、石や草や木に仏界がある訳ではありません。全てのものは「無我」であり「無自性」です。縁によってその姿が顕れているに過ぎません。自身の心から生じた石(石と自身が而二不二で一体)なのでそこには仏性(南無妙法蓮華経=一念三千)が備わる訳です。

 人は五感で外の情報を感じ取りそれを意識として統合します。これを認識といいます。その意識を中心に立ち上がる実体の世界を衆生世間と言います。凡夫の一念三千です。その世界における真理(縁起)が仮諦です。

 その五蘊(五感)を空じて肉体(実体)が存在しないマナ識(七識)、アラヤ識(八識)、という意識層(唯識)に心が入っていくと非実体の五陰世間が立ち上がります。仏の一念三千です。その世界における真理(色即是空)が空諦です。

 そしてさらに奥底の九識に一念三千が真理として存在します。その真理が九識心王真如の都「南無妙法蓮華経」です。概念ではなく真理を中心に立ち上がる空間認識の変化から生じる一念三千(国土世間)です。

 そこのところを理解して御書の『十如是事』を拝読してみましょう。

「我が身が三身即一の本覚の如来にてありける事を今経に説いて云く如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等文、初めに如是相とは我が身の色形に顕れたる相を云うなり是を応身如来とも又は解脱とも又は仮諦とも云うなり、次に如是性とは我が心性を云うなり是を報身如来とも又は般若とも又は空諦とも云うなり、三に如是体とは我が此の身体なり是を法身如来とも又は中道とも法性とも寂滅とも云うなり、されば此の三如是を三身如来とは云うなり此の三如是が三身如来にておはしましけるを・よそに思ひへだてつるがはや我が身の上にてありけるなり、かく知りぬるを法華経をさとれる人とは申すなり此の三如是を本として是よりのこりの七つの如是はいでて十如是とは成りたるなり、此の十如是が百界にも千如にも三千世間にも成りたるなり、かくの如く多くの法門と成りて八万法蔵と云はるれどもすべて只一つの三諦の法にて三諦より外には法門なき事なり、其の故は百界と云うは仮諦なり千如と云うは空諦なり三千と云うは中諦なり空と仮と中とを三諦と云う事なれば百界千如・三千世間まで多くの法門と成りたりと云へども唯一つの三諦にてある事なり、されば始の三如是の三諦と終の七如是の三諦とは唯一つの三諦にて始と終と我が一身の中の理にて唯一物にて不可思議なりければ本と末とは究竟して等しとは説き給へるなり、是を如是本末究竟等とは申したるなり、始の三如是を本とし終の七如是を末として十の如是にてあるは我が身の中の三諦にてあるなり、此の三諦を三身如来とも云へば我が心身より外には善悪に付けてかみすぢ計りの法もなき物をされば我が身が頓て三身即一の本覚の如来にてはありける事なり、是をよそに思うを衆生とも迷いとも凡夫とも云うなり、是を我が身の上と知りぬるを如来とも覚とも聖人とも智者とも云うなり、かう解り明かに観ずれば此の身頓て今生の中に本覚の如来を顕はして即身成仏とはいはるるなり、譬えば春夏・田を作りうへつれば秋冬は蔵に収めて心のままに用うるが如し春より秋をまつ程は久しき様なれども一年の内に待ち得るが如く此の覚に入つて仏を顕はす程は久しき様なれども一生の内に顕はして我が身が三身即一の仏となりぬるなり」

 一念三千の軸となる起点は〝十如是〟の最初の如是〝相〟と如是〝性〟です。石には石の〝相〟があります。それを石だと認識する心が〝性〟です。アメリカ人にとっては同じ石の相であっても性は「Stone」です。性はそれを認識する人の〝心〟です。心を「概念」で開くのか、心を「南無妙法蓮華経」で開くのか、それによって〝体〟も異なってきます。

 概念で開けば凡夫の〝体〟、南無妙法蓮華経で開けば仏の〝体〟です。十如是はこの「相・性・体」を軸として動き出します。凡夫の〝相〟と概念からなる〝性〟が〝体〟となって働く十如是が凡夫の一念三千(仮諦)です。肉体を持たない仏の場合、凡夫の認識に応じて応身として顕れた仏がその〝体〟となります。インドに生を受けたお釈迦様です。その応身(始成正覚)の〝相〟と法華経という概念(理の一念三千)からなる〝性〟が〝体〟となって顕されたのが法華経『方便品』の十如是の仏の一念三千(空諦)です。

 では、〝寿量品の釈迦〟はと言いうと、その始成(有始)の十如是を打ち破った久遠仏(無始)の十如是になります。それがどういうことかと言いますと、仏という「概念」を軸として開く一念三千ではなく、概念を超えた「真理(真如)」として開かれる一念三千が真実の悟りの(事の)一念三千(中諦)であるという事です。『白米一俵御書』の〝月こそ心、花こそ心〟の一節がそれにあたります。

月こそ心、花こそ心

「爾前の経の心心は、心より万法を生ず、譬へば心は大地のごとし 草木は万法のごとしと申す、法華経はしからず 心即ち大地 大地則草木なり、爾前の経経の心は心のすむは月のごとし 心のきよきは花のごとし、法華経はしからず 月こそ心よ 花こそ心よと申す法門なり」

 蔵教では、「心から万法を生ずる」といった説き方をします。ここでいう万法とは、因果と縁起のことで、最初に因があってそれが縁によって最終的に結果が生じるといった時間的流れに則った法理(声聞の悟り)です。それはちょうど「大地から時間をかけて草木が茂っていく」ようなものです。

 しかし法華経はそうではなく、「大地が即草木であり草木が即大地である」と説きます。これは因と果が異時ではなく同時に存在するという法華経でしか説かれていない当体蓮華の法理を端的な言葉で言い表しています。また心を中心に説く通教では「心が澄むのは月のようである。心が清いのは花のようである」と説きます。これは譬えであり譬えを説くのは通教が得意とするところです。澄んだ清らかな心が示すもの、それは縁覚の悟り「色即是空」です。しかし、どちらの譬えも心と月、心と花といったように心と物が分別によって対比され区別されています。

 それに対し無分別の法を説く法華経は、「月こそ心、花こそ心」と、月も花も自身の心そのものであると説きます。これを「不二の法門」とも「而二不二(ににふに)」の真理ともいいます。この真理を悟った境涯が菩薩です。空・仮・中の三観・三諦で言えば中道第一義諦の「中諦」にあたります。分別・無分別という「実体に即した概念」を中心に説明しますとこのような解説になりますが、これを「時間という概念」を中心に説明すると次のような解釈になります。

 仏は修行の因を積んでその報いとして仏としての徳を得ます。この因行果徳は、因を元として果が生じる「時間という概念」の中でのお話です。過去遠々劫の宿業が蓄積する八識のアラヤ識はそういった記憶から生じる「時の流れという概念」によって生じる一念三千の世界観です。その更に奥底に位置する時の流れといった概念から抜け出た世界、それが〝南無妙法蓮華経〟という真如(真理)として開く一念三千の世界(国土)です。仏界の相である御本尊を〝相〟として、法華経の心を〝性〟として南無妙法蓮華経を我が〝体〟として一念三千を開くと石も草も木も人も動物も全てが南無妙法蓮華経(一念三千)という真理として顕れます。その心が、

「月こそ心、花こそ心」

 であり、

「草にも木にも成る仏なり」

 です。

 ではこの南無妙法蓮華経が寿量品のどこに沈められているのか。大聖人様は、〝寿量品の文の底に秘して沈めたり〟と仰せになられていますが、それが寿量品のどの文なのか。

「此の本尊の依文とは如来秘密神通之力の文なり」

 と『御義口伝』にあります。『御講聞書』にも、

「本門の極理と云うは如来秘密神通之力の文是なり」

「法華経の極理とは南無妙法蓮華経是なり」

 とある通り、寿量品の中の「如来秘密神通之力」の文がそれにあたります。大聖人様は、「如来秘密」について、『三大秘法抄』の中で、天台の「法華文句」の巻九の言葉をもって説明されています。

「一身即三身なるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す、又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ自ら知るを名けて密と為す、仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず」

 これは法華経本門に至って初めて明かされる法理であって、三身如来の一身即三身、三身即一身を他経では秘して説かずにいたと。ここでいう三身とは、応身如来・報身如来・法身如来の三身の如来のことですが、「如来」の意味を今一度思い出してみて下さい。

 如来=「真如から来た人」

 如来とは無始無終の真理そのものという意味です。それに対し仏は、

 仏=「真理を悟った人」

 もしくは「真理を得た人」で有始の始成正覚のお釈迦様です。法身の仏は法的な仏なので人間は認識することが出来ません。ですから人間の認識に応じた形で現われます。それが肉体(実体)を持って現われる応身の仏、即ちインドに生まれたお釈迦様です。そのお釈迦様が様々な修行を積んで最終的に菩提樹の下で悟りを得て仏に成りますが、この場合の仏は修行の報いとして仏果を得るので〝報身の仏〟になります。伝教大師が「一念三千即自受用身、自受用身とは出尊形の仏」と言われたように自受用身(自受用報身)には肉体がありません。あるのは一念三千(自受用報身)です。

 応身の釈迦は、仏に成る智慧として一念三千(報身)を顕し、法身の久遠の仏(久遠実成)と成ります。これは、仏の三身で仏の一念三千です。

<仏の一念三千(仏の空・仮・中)>
 仮諦 --- 応身(応身の釈迦)
 空諦 --- 報身(始成正覚の仏)
 中諦 --- 法身(久遠実成の仏)

 では次に、我々凡夫にはこの三身がどのように顕れるのかを説明します。

 「仮諦」の意味は、三千の様々な要因が縁となって仮に立ち上がった世界が実在の〝真理〟であるという事です。その世の中の〝真理〟を実在として大聖人様が顕されたのが「曼荼羅御本尊」です。その御本尊の真理の〝相(姿)〟を如是相として崇め、仏の心を如是〝性〟として法華経を読誦し、「南無妙法蓮華経」のお題目を唱える我が身が当体蓮華となって如是〝体〟と成り、十如是の軸となる最初の「相・性・体」の三如是を成します(通相三観の一中一切中)。

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【一中一切中】
 凡夫の中諦(仮の真理)--- 御本尊(相)
 仏の中諦 (空の真理)--- 法華経(性)
 悟りの中諦(中の真理)--- 南無妙法蓮華経(体)

 以上の説明は、先に紹介した『十如是事』の

「如是相とは我が身の色形に顕れたる相を云うなり是を応身如来とも又は解脱とも又は仮諦とも云うなり、次に如是性とは我が心性を云うなり是を報身如来とも又は般若とも又は空諦とも云うなり、三に如是体とは我が此の身体なり是を法身如来とも又は中道とも法性とも寂滅とも云うなり」

 の部分にあたります。そして『十如是事』は次の文へと続きます。

「されば此の三如是を三身如来とは云うなり此の三如是が三身如来にておはしましけるを・よそに思ひへだてつるがはや我が身の上にてありけるなり、かく知りぬるを法華経をさとれる人とは申すなり此の三如是を本として是よりのこりの七つの如是はいでて十如是とは成りたるなり」

 この三如是が軸となって残りの七如是が働きます。そして、

「此の十如是が百界にも千如にも三千世間にも成りたるなり、かくの如く多くの法門と成りて八万法蔵と云はるれどもすべて只一つの三諦の法にて三諦より外には法門なき事なり」

 とありますように、その十如是から百界の色相、三千の世界観が立ち上がります。これが空・仮・中の〝三諦の円融〟です。

 「如来秘密神通之力」の〝如来秘密〟が、法華経の本門で初めて明かされた一身即三身、三身即一身の三身如来の秘密のことで、それが御本尊に向かって法華経を読誦し、南無妙法蓮華経のお題目を唱える凡夫の一身に顕れます。

 凡夫の仮・空・中 --- 凡夫の三身の〝相〟御本尊(応身)
 仏の仮・空・中 --- 凡夫の三身の〝性〟法華経(報身)
 如来の仮・空・中 --- 凡夫の三身の〝体〟南無妙法蓮華経(法身)

 ここで真ん中の〝仏の仮・空・中〟に着目してみましょう。勤行という仏道修行は、御本尊という仏の十界の〝相〟と向き合う(縁する)ことで自身の仏性が顕れます。仏と仏縁が無い末法の衆生にどうして仏性が顕れる(観じとる)かといえば、法華経の方便品と寿量品を読誦しているからです。

<仏の三身>
 応身の釈迦 お釈迦様
 報身の釈迦 始成正覚 (方便品)
 法身の釈迦 久遠実成 (寿量品)

 御本尊は法華経の〝虚空会〟を曼荼羅として顕したもので、その〝虚空会の儀式〟において菩薩達は仏の滅後の弘教を誓っています。ですから末法において凡夫が法華経を唱えれば必ずその力(用の三身)となって諸仏が働き出します。それが天界(色界)に身を置く菩薩達にとっての菩薩行でもあるからです。

 凡夫と諸仏が一体となって当体蓮華の南無妙法蓮華経として凡夫の体が開きます。そして仏の三身は人間の能力を遥かに超えた力(用の三身)、神通力で凡夫を導きます。その力が〝如是力〟です。「如来秘密神通之力」の〝神通之力〟です。『諸法実相抄』には次のように示されています。

 「されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く「如来秘密神通之力」是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし、凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり」

 如来秘密 --- 体の三身(凡夫)
 神通之力 --- 用の三身(仏)

 御義口伝に云く、

 「今日蓮等の類いの意は即身成仏と開覚するを如来秘密神通之力とは云うなり」

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