この二つの縁起の相違は、外縁生が時間経緯から生じる因果律で、内縁生が心の変化から生じる因果律です。どちらも因果をもととした縁起の法であることには変わりはありません。しかし、此縁性縁起の外縁生から生じる縁起は、析空と体空でも説明ていますように、実体思想で捉えた縁起です。
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仏門に入っても尚、実体思想(モノの有る無し)から抜けられずにいる声聞の境涯の小乗仏教では実体における真理を悟るのが限界でした。
実体における真理とは、科学や物理の実験や医学の臨床実験と同じレベルの真理です。レベルという言い方をしましたのは、真理にも段階があるということです。
例えば、算数の1+1=2という答えは、数学的には正しい答えです。
では、それは真理なのかといいますと、算数を習っていない幼稚園児やアフリカの奥深いジャングル地帯に住んでいる原住民にとっては算数という概念がありませんのでそれは真理とはなり得ません。また、そういった原始に近い暮らしをしている人達には物理の概念もありません。ですから引力の法則も知り得ません。
しかし、そんな彼等が手に取ったリンゴを離すと地面に向かって落下します。これは自然界に元から備わっている現象なので概念ではなく真理です。
しかし、近年の物理学にあって時間というものが人間の概念から生じる〝出来事〟でしかないといった学説が唱えられるようになってきました。
https://note.com/tuttlemori/n/n43c4fef567b6
お釈迦様が説いた〝縁起〟がまさにその〝出来事〟にあたります。物理学が仏法の真理に追いついてきているのです。時間が出来事に過ぎないのであれば、例えば自身が育てて来た息子に向かって「あなたはどちらさんですか?」と言う認知症のおばあちゃんが自身が落としてしまったリンゴを見ても「落下したリンゴ」ではなく、「床に置いてあるリンゴ」でしかないのです。
引力は「時間の経過にともなう物体の移動」を認識する法則です。脳の記憶という機能が働かないと生じない〝出来事〟なのです。記憶という高度な脳をもっている生き物だけが認識出来る〝出来事〟であって、自然界に備わっている真理ではなかったのです。
そういったことを考えた時、実体思想で捉えた此縁性縁起は真理であってもそれは「人間の概念の中での真理」でしかないのです。
ですからその真理を「仮の真理=仮諦」と仏法では呼びます。
これは人間の認識で起こる縁起(外縁)、仮諦の一念三千です。
還滅の縁起(内縁)に続く